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能楽囃子方における小鼓方大倉流・幸流、大鼓方葛野流・高安流の流派伝承と技法に関する比較研究

Tags: 能楽, 囃子方, 小鼓, 大鼓, 流派, 伝承, 技法, 比較研究

はじめに

日本の古典芸能である能楽は、シテ方、ワキ方、囃子方、狂言方という四つの役割群(職分)によって構成されています。この中でも囃子方は、謡とともに能楽の音楽的側面を担い、舞台に奥行きと情趣を与え、劇の進行に不可欠な役割を果たしています。囃子方はさらに笛方、小鼓方、大鼓方、太鼓方という四つのパート(四拍子)に分かれ、それぞれが独立した、かつ密接に関連する演奏を展開します。

囃子方の演奏技法や音楽構造は、能楽研究において長らく重視されてきましたが、特に流派ごとの伝承や技法の差異に関する詳細な学術的研究は、専門的な史料読解や演奏実践への深い理解が求められるため、その重要性にもかかわらず、未だ多くの解明すべき点を残しています。本稿では、能楽囃子方の中心をなす楽器である小鼓方から大倉流と幸流、大鼓方から葛野流と高安流の主要四流派に焦点を当て、それぞれの流派が持つ歴史的伝承、特徴的な奏法理論、主要な手組みや譜における差異について比較研究を行い、能楽囃子方の多様性と深層に迫ることを目的といたします。

能楽囃子方の構成と役割概要

能楽囃子方は、舞台向かって右から笛、小鼓、大鼓、太鼓(舞台によっては太鼓が入らない場合もあります)の順に並んで演奏します。これを四拍子と呼びます。各パートの基本的な役割は以下の通りです。

これらの楽器が、それぞれ独立した譜に基づきながらも、互いの音を聞き、息を合わせることで、能楽独特の幽玄で緊密なアンサンブルを形成します。

小鼓方二流派の比較:大倉流と幸流

小鼓方には、大倉流と幸流の二つの宗家があります。両流派はともに大和猿楽に源流を持ち、古くから小鼓方の双璧として発展してきました。

歴史的背景と伝承

大倉流: 観阿弥・世阿弥の時代から続く大和猿楽大倉座(後に観世座に合流)を源流とし、戦国時代から江戸時代にかけてその地位を確立しました。家系による伝承を重んじ、宗家制度が強く維持されてきました。古くは多くの家が分派しましたが、現在に伝わるのは宗家家元を中心とする体制です。

幸流: 大和猿楽結崎座(後の宝生座、金春座と深い関係を持つ)に源流を持ち、こちらも古くから能楽の小鼓方として活躍しました。大倉流と同様に家系による伝承が中心ですが、独自の伝書や口伝が多く伝わっており、大倉流とは異なる系統の技法や解釈を持つ部分が多いです。

両流派の伝承には、それぞれの座との関係性や、歴史上の重要な囃子方との交流が影響を与えています。例えば、金春禅竹の『明宿集』など、能楽理論書には囃子に関する記述も含まれており、当時の囃子方の思想や技法の一端を知ることができますが、流派ごとの詳細な口伝や秘伝は、各家の伝書に頼るところが大きいです。

奏法理論と手組み

小鼓の奏法は、革の打ち方、調べ緒の締め方(調子)、そして「手組み」と呼ばれるリズムパターンと音色の組み合わせによって成り立ちます。両流派とも基本的な音(ポ、プ、タ、チなど)は共通していますが、それぞれの音の出し方、調べの掛け方、そして手組みの構造や名称、解釈に差異が見られます。

大倉流の例: * 「責メ」(セメ): 調べ緒を強く締めながら打つ技法。強いアクセントや劇的な効果を狙います。 * 「拾ヒ」(ヒロイ): 細かいリズムパターンを連続させる手組み。軽快さや動きを表現する際に用いられます。 * 「カシラ」(カシラ): 特定の段落や句の冒頭に打たれる、比較的強めの音。構造的な区切りを示します。 * 譜面には、「一二」「一二三」などの記号と「ポ」「プ」などの音色記号、「責」「拾」といった手組み名が組み合わされて記述されます。譜の解釈においては、音価よりも間合いや音色、そして全体の流れを重視する傾向があります。

幸流の例: * 幸流にも同様の技法や手組みがありますが、名称が異なったり、同じ名称でも打ち方やリズムパターン、用いられる場面が異なる場合があります。 * 例として、幸流特有の「アゴ」(アゴ)や「テ」(テ)といった手組み、あるいは「打分」(ウチワケ)と呼ばれる、音色や強弱を細かく打ち分ける技法などがあります。 * 譜面における記譜法や解釈にも差異が見られます。例えば、同じ楽曲の同じ箇所でも、大倉流と幸流で譜が異なったり、譜は同じでも実際の演奏が異なったりすることがあります。これは、譜が演奏の全てを網羅しているわけではなく、口伝や身体的な伝承に依存する部分が大きいことを示しています。

両流派の手組みや音色の違いは、能の特定の場面や謡との関わりにおいて、微妙ながらも異なる表現を生み出します。例えば、『道成寺』の乱拍子のような技巧的な曲や、『羽衣』の序之舞のような叙情的な曲では、流派ごとの個性や得意とする表現がより顕著に現れることがあります。

大鼓方二流派の比較:葛野流と高安流

大鼓方には、葛野流と高安流の二つの宗家があります。小鼓と同様に、両流派も古くから能楽の大鼓方として重要な位置を占めてきました。

歴史的背景と伝承

葛野流: 大和猿楽に源流を持ち、金春座と深い関係を持っていました。戦国時代には既に有力な流派として存在し、江戸時代には幕府お抱えの能楽師として栄えました。力強く明確な音色と、間合いを重視する演奏が特徴とされます。

高安流: 観世座と深い関係を持っていました。こちらも古くから続く流派であり、特に鋭く高い音色と、緊密なリズムパターンを得意とするとされます。こちらも家系による伝承が中心で、独自の伝書や口伝が継承されています。

両流派の伝承もまた、関係の深かった座や、歴史上の名手とされる人物からの影響を受けています。大鼓方もまた、譜に書ききれない多くの情報が口伝や身体伝承によって伝えられてきました。

奏法理論と手組み

大鼓の奏法は、革の打ち方(素手かユビか)、強弱、そして手組みによって構成されます。小鼓と比較すると、音色のバリエーションは少ないですが、その分、音の「質」や「間」が極めて重要になります。両流派で共通する手組みも多いですが、打ち方、音の強弱、そして手組みの構造や名称、解釈に差異が見られます。

葛野流の例: * 「手合」(テアイ): 大鼓の基本的なリズムパターンの一つ。謡や他の楽器との掛け合いで頻繁に用いられます。 * 「ツメ」(ツメ): 音を詰めて打つ技法。緊迫感や勢いを表現する際に使用されます。 * 譜面には、「チ」「テ」といった音色記号(ユビの有無などで区別される場合もある)、そして「手合」「ツメ」といった手組み名が記されます。葛野流は、大鼓の音を能全体の構造の中でいかに活かすか、間をどのように取るかを重視する傾向があります。

高安流の例: * 高安流も同様の基本的な手組みを持ちますが、打ち込みのタイミングや音の「鳴り」の解釈、そして手組みの名称や構造に違いが見られます。 * 特に、高安流はより鋭く高い音色を出すことを得意とすると言われ、特定の場面や曲においてその特徴が際立ちます。 * 譜面における記譜法や解釈にも、葛野流とは異なる点が見られます。同じ曲でも、譜が異なる場合や、譜は同じでも実際の演奏のニュアンスが異なることがしばしば観察されます。

大鼓の音は、舞台上の動きや謡に強い推進力を与えたり、空間に緊張感を生み出したりする役割を持ちます。両流派の奏法の違いは、これらの効果に影響を与え、能の表現に微細ながらも重要な差をもたらします。例えば、『石橋』のような獅子の舞では、大鼓の力強い手組みが舞を鼓舞する上で決定的な役割を果たしますが、その打ち方には流派ごとの個性が現れます。

流派間の相互影響と差異の背景

能楽囃子方の各流派は、それぞれ独立した伝承を守ってきましたが、歴史的には流派間の交流や相互影響も少なからず存在しました。例えば、師弟関係の移動や、他の流派の演奏を聞いて自身の芸に取り入れるといったことが行われた可能性は十分に考えられます。しかし、基本的には各流派が独自の芸系を重んじ、その「型」や「譜」を厳格に守ってきました。

流派間に差異が生まれた背景には、以下のような要因が考えられます。

  1. 源流となる座の違い: 大和猿楽の四座(観世、宝生、金春、金剛)と深い関係を持っていたことが、それぞれの流派の芸風や伝承に影響を与えた可能性があります。
  2. 歴史上の名手の存在: 各流派に現れた革新的な演奏家や理論家が、その流派の芸風を形成・変化させた影響。
  3. 伝書や口伝の差異: 文字化された伝書や、師から弟子へ言葉や実演で伝えられる口伝の内容が、流派ごとに異なっていたこと。特に囃子方においては、譜面だけでは伝わらない「間」や「音色」、「息遣い」といった要素が口伝として極めて重要であり、ここに流派の個性が集約されます。
  4. 特定の演目への得意・不得意: 各流派が特定の演目や種類の曲(例: 舞事、段物など)を特に得意とし、その技法を磨いてきた結果、流派全体の特徴となった可能性。

これらの要因が複合的に作用し、現在のような多様な流派の芸風が形成されたと考えられます。

譜面と伝承の課題

能楽囃子方の演奏は、一般的に「譜」と呼ばれる独自の記譜法に基づいて行われます。しかし、この譜は西洋音楽の楽譜のように音高や音価を厳密に指定するものではなく、むしろ演奏の骨子や手組みのパターンを示すためのものです。前述の通り、音色、強弱、間合い、調べ緒の操作といった多くの情報が、譜面には書ききれません。

したがって、囃子方の演奏は、譜面と並行して伝えられる口伝、そして師匠の演奏を模倣し、自身の身体に染み込ませるという身体的な伝承によって成り立っています。流派ごとの譜の解釈や、口伝の内容に差異があることが、そのまま演奏の差異として現れるのです。

学術的な研究においては、現行の譜面の収集・比較研究に加え、各流派に伝わる古譜や伝書の解読が重要となります。これにより、歴史的な演奏実践の変遷や、失われた技法、あるいは流派間の影響関係などを推測する手がかりが得られます。しかし、古譜や伝書は秘伝として扱われることも多く、また筆写による伝承過程で生じた誤りや解釈の多様性なども考慮する必要があり、その研究は容易ではありません。

結論と今後の展望

本稿では、能楽囃子方の中から小鼓方大倉流・幸流、大鼓方葛野流・高安流の主要四流派に焦点を当て、その歴史的背景、奏法理論、そして手組みや譜における差異について比較研究を行いました。各流派が独自の伝承と技法を持ち、それが能楽の多様な表現を支えていることを確認しました。小鼓方の両流派、大鼓方の両流派はそれぞれ近しい関係にありながらも、独自の個性を確立しており、同じ楽曲であっても流派によって異なる音楽的解釈や表現が行われていることが理解できます。

しかし、本稿で扱えたのは各流派の全体像と主要な特徴に留まります。能楽囃子方の学術的研究をさらに深めるためには、以下の点が今後の課題として挙げられます。

  1. 詳細な譜面比較と分析: 同一演目の全曲における各流派の譜面を詳細に比較し、手組みの出現頻度、構造、接続関係などを定量的に分析すること。
  2. 伝書・古譜のさらなる解読と研究: 各流派に伝わる伝書や古譜を網羅的に収集・解読し、歴史的な演奏実践や技法、理論の変遷を明らかにすること。
  3. 演奏の音響学的分析: 実際の演奏における音色、強弱、間の長さなどを音響学的に分析し、流派ごとの物理的な差異を客観的に把握すること。
  4. 他の職分との関係性の研究: 囃子方の演奏が、シテ方の演技や謡、狂言方の動きといかに相互作用しているか、流派ごとの囃子が能全体に与える影響を具体的に分析すること。

これらの研究を通じて、能楽囃子方の奥深い世界、そして流派伝承が日本の古典芸能にもたらす豊穣な多様性をより深く理解することが可能となるでしょう。本稿が、能楽囃子方、特に流派間の比較研究に関心をお持ちの研究者の方々にとって、新たな研究の糸口となれば幸いです。

(本稿執筆にあたり、特定の文献名を直接引用することは控えましたが、能楽史、各楽器の伝書研究、囃子方の技法に関する多くの先行研究や史料を参照いたしました。詳細については、能楽関連の専門学会誌や研究機関の刊行物、各流派の公式資料などをご参照ください。)